稚内の鉄道/半世紀の今昔

1面1線のみの鉄路 日本最北端の稚内市に在る稚内駅。第二次世界大戦前には、この北にあった稚内桟橋駅で稚泊連絡船が日本領の樺太との間をつないでいました。 一般に終戦の日と言われる8/15後にも続いた日ソ戦争でロシアに奪われたまま、樺太は未だに戻ってきません。そもそもアジアにおいては日本が仕掛けた戦争なので、国家としては自業自得ですが、当時の樺太在住者は悲劇の被害者です。 そんな歴史には無関係のように、国鉄からJRに変わった後の鉄道は寂れる一方です。稚内や沿線の人口が減った(樺太を失った事も一因)のだから当然とも言えますが、都市間バスや飛行機にシェアを奪われたのも事実です。 なぜこんなに寂れたのかは、赤字会社JR北海道が積極姿勢を取れないことも原因となっているのかもしれませんが、赤字が避けられないことが分かっていながら分割民営化したのですから、当然の帰結でしょう。 南稚内駅発車時刻表 およそ4時間も列車が走らない時間帯がある鉄路は、その存在意義が疑われます。それでも廃線の噂を聞かないのは、ロシアをにらむ国策(北の守り)に関係するからなのでしょう。 それにしても、現実の零落ぶりは50年前を知る者としては、言葉もありません。過去には、函館からの直通の急行列車があり、寝台車の連結された夜行急行列車も札幌との間を結んでいました。 今回の旅の街歩きの道すがら、南稚内駅で「その昔機関区があった場所はどの辺りでしょうか?」と尋ねたら、20歳代と40歳代と思しき駅員氏は、二人して首を傾げ、答えに窮していました。もちろん、現在は輸送体系が変わっているので機関区なるものは存在しません。 それらしきものの所在に気づいても「立入禁止だから教えられない」と返されたので、駅を出てタクシードライバーさんから聞き込んで向かいました。(先にGoogleの空中写真を見るべきでした) 転車台 ありました。夏草に埋もれた転車台。使われなくなってから数十年の歳月を、振り返る人も無く、ただそこに在るのみ。撤去することすら放棄されて。 中央に見える円形の構造物が、機関車の向きを変えるための転車台です。 当時の記憶では活気があったせいか広く感じた機関区の敷地ですが、目の当たりにしてみると狭かったです。不要な線路をはがしたせいで、狭く感じたのか。 その昔、稚内機関区は、宗谷本線の他に天北線や興...